【Honda FC】Jリーグを目指さないクラブHonda FCの歴史
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「Honda FC」ですか?
Jリーグのクラブではないですよね?
YouTubeコミュニティの方にリクエストがあったから取り上げたわ。
JFLに所属するクラブだけど、過去に2度Jリーグを目指したことがあるわ。
そうなの!
それじゃ、「Honda FC」を紹介するわね。
「Honda FC」は静岡県浜松市を本拠地とする、JFLに所属する社会人サッカークラブ。
「Honda FC」は呼称で、正式名称は「本田技研工業株式会社フットボールクラブ」なの。
本田技研工業は自動車やバイクメーカーのHondaのことよ。
アマチュアチームでありながら地域密着型クラブを標榜していて、下部組織も有しているわ。
ホームスタジアムは、浜松市北区都田町にある、「Honda都田サッカー場」。
Jリーグクラブも含め日本国内で数少ない、クラブが自前で所有するスタジアムなの。
ただ交通の便が悪くて、終バスとかも早いから、観戦に行く場合には、ちゃんと調べてから言った方がいいわね。
チームのシンボルマークは、浜松の「H」とHondaの「H」が重なり合い、当時の浜松の市鳥であるツバメと雄大な遠州灘の波を型どったデザインなの。
マスコットキャラクターは、チームのシンボルマークでもあるツバメをモチーフとした「パッサーロ」。
Honda FCはアマチュア選手とプロ選手が混合しているの。
アマチュア選手に関しては、午前中はホンダの正社員としてトランスミッション製造部に勤務して、午後からはフットボーラーという生活を送っているわ。
プロ契約選手に関しては、日本サッカー協会が定めた規則に沿った契約をせずにホンダが独自に社員の扱いで契約を締結しているわ。
他クラブからの期限付き移籍も含めたプロ契約選手全員が総務課に籍を置いているの。
所属選手全員が社員扱いなのですね。
Honda FCはどうやって創立されたのですか?
ホンダは埼玉製作所の野球部や、鈴鹿製作所の野球部が既に実績を挙げていて、ホンダの創業地でもある浜松製作所でも、当初は野球部を作ろうという声も出たの。
でも既に埼玉と鈴鹿に野球部があること、そして何よりも静岡という土壌を考え、サッカー部創設が決定したわ。
1971年、浜松製作所に置かれた浜友会サッカー部を母体として本田技研工業サッカー部を創部したの。
既存のメンバーを中心に、新入社の関東大学リーグ経験者を大量に加えたわ。
静岡県リーグ2部の西部リーグからスタートを切ったの。
1973年には東海社会人サッカーリーグに昇格。
1975年には日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。
1981年にはJSL1部に昇格し、以降1992年にJSLが終了するまで、当時の日本サッカーのトップカテゴリに居続けたわ。
ちなみに1989年に開催された、第1回フットサル世界選手権、今で言う「FIFAフットサルワールドカップ」に出場した日本代表は、ホンダサッカー部の選手で構成されていたわ。
そんなに強かったのにJリーグには加盟しなかったのですか?
実は過去に2度、Jリーグクラブ加盟の構想があったけど、どちらも実現しなかったの。
ホームタウンである浜松市内に第一種競技場がなかったの。
ホンダサッカー部は浜松市の協力も要請したけど、浜松市はJリーグ参加に消極的だったわ。
浜松市の協力も期待できないから、誘致要請のあった埼玉県浦和市にホームタウンを移転し、「浦和ホンダウィンズ」としてJリーグへ参加することが検討されたの。
仮にホンダが浦和市でやっていたら、レッズは別のホームタウンだったかもしれないわね。
ホンダのチーム関係者の間には「創業地である浜松をホームにJリーグへ参戦したい」とする意向が根強かったの。
結局、結論が出ないまま、1991年にJリーグへの初年度参加の見送りを発表したわ。
当時は国内経済の悪化からホンダ本社はF1からの撤退を表明していたわ。
サッカー部のプロ化見送りに関しても、同様の論理付けがされたけど、本音はサッカー部発足時から現在に至るまで、浜松を本拠地にしていたことで、
ホンダがJリーグに参加しないとなると、ホンダに所属していた選手はどうなるのですか?
ホンダがJリーグ参加を見送ったことで、監督の宮本征勝をはじめ黒崎久志、長谷川祥之、本田泰人、内藤就行、入井和久、千葉修の6選手が鹿島アントラーズに移籍したわ。
さらに北澤豪、石川康はヴェルディ川崎に移籍したの。
当時の日本代表クラスの選手たちね。
これが1回目のJリーグ参加構想ね。
それと、これは結果論だけど、仮にホンダがJリーグ創設時のオリジナル10に参加していたら、鹿島アントラーズはなかったかもしれないわね。
理由は鹿島アントラーズがJリーグ初年度参加枠にギリギリで入っていたから、ホンダが入ることで落選していたかもしれないわ。
仮に鹿島がオリジナル10から漏れて、JFLからJリーグを目指したとしても、ホンダから移籍した選手が鹿島に移籍する必要がなくなり、当時JSL2部に所属していた鹿島アントラーズの前身の住友金属では戦力的に厳しかったかもしれないわ。
まぁ、結果論だけどね。
こうして、ホンダは1992年からJFL1部に参加したわ。
レギュラーの大半を失ったチームは、10チーム中9位でJFL2部に降格したわ。
でも、JFL2部では優勝を果たして、1年でJFL1部に返り咲いたの。
1994年には、旧JFLが16チームによる1部制に再編されたわ。
それを機に現場サイドでJリーグ参入へ向けた構想が始動したの。
1994年にはJリーグへ参戦したジュビロ磐田から、戦力外通告を受けた選手を補強。
1995年には柏レイソルから戦力外通告された、呂比須ワグナーらを補強したわ。
呂比須ワグナーってフランスワールドカップの時の日本代表選手ですよね?
そんな選手も所属していたのですね。
当時の呂比須は日本に帰化する前だったの。
柏レイソルからは外国人枠の問題で戦力外となったわ。
1996年にはヴィッセル神戸、鳥栖フューチャーズ(現・サガン鳥栖)コンサドーレ札幌などのJリーグ参入を目指すチームと、東京ガスサッカー部(現・FC東京)を加えた熾烈な上位争いを制して優勝を飾ったわ。
これを受け1997年には、ホンダ本社所有の「Honda都田サッカー場」を50億円かけて改築することで、懸案だったスタジアム問題を解決する見込みを立て、2度目のJリーグ加盟を目指したわ。
クラブチームの「浜松F.C」を立ち上げて、本田技研工業サッカー部を移管することにしたの。
この時にホンダ本社は浜松F.Cの株式約6割を引き受けて筆頭株主となったわ。
さらにはダイドードリンコなどが大口スポンサーとして名を連ねたわ。
ホンダはスポンサーとしてやっていけばいいという考えだったから、あくまで浜松F.Cが『地域のクラブ』であることをアピールしていたわ。
そして浜松F.CはJリーグ準会員となったの。
Jリーグ参入には民間だけでなく、行政の協力が必要になってくるの。
でも浜松市側からJリーグ参入について積極的に動いた形跡はなかったの。
当時の浜松市は
というスタンスだったわ。
時がある程度経過した頃には、
「協力」から「応援」にスタンスが変わってしまったのですね。
当時のホンダの社長だった川本信彦は「話が違う!
」と嘆いていたそうよ。
結局、行政の協力を得られずにJリーグ加盟構想は白紙撤回になったわ。
Jリーグ準会員資格もわずか3ヶ月で返納したの。
これが2回目のJリーグ参加構想ね。
どうもホンダという会社のポリシーに反するみたいだったの。
ホンダの創業者である本田宗一郎は
それがサッカークラブの運営とどう関係しているのですか?
スポーツであれ本業であれ、地元に根付いて地元の人たちを大切にするというのがホンダの理念なの。
そのため、Honda FCは現在も「ホームタウンありき」で浜松市に残り続けているわ。
こういうチームがJリーグに行けないのは、ちょっともったいないわね。
1999年にJ2が創設されて、JFLに所属していた多くのチームがJ2へ参加したけど、プロ化を断念して「完全なアマチュアチーム」へ移行したホンダサッカー部はJ2には参加せず、創設された日本フットボールリーグに所属したわ。
2002年に「本田技研工業サッカー部」から「本田技研工業フットボールクラブ」に改称したわ。
この時から選手とのプロ契約を行なわず、2013年まで社員選手のみでチームを存続させることとなったわ。
毎年の補強が高卒や大卒、ユースからの昇格の新卒選手のみとなったわ。
Honda FCで実力をつけて、Jリーグに移籍する選手もいれば、Honda FCに骨をうずめる選手もいるわね。
ホンダの正社員だから、選手を引退してもホンダで働けるという保証があるのも企業チームのいいところかもしれないですね。
でも、所属選手がJリーグに挑戦する際には快く送り出すわ。
実際にJリーグのチームに移籍していった選手が何人もいるわね。
12年間も社員選手だけで構成されてきたけど、毎年上位につける実力をもっていたの。
天皇杯ではJリーグチームを脅かし、時には勝利することもあったわ。
Jリーグの関係者に
などと言わしたこともあり、いつしか「Jへの門番」という異名で呼ばれることになったわ。
それでも、クラブに加入できるのは基本的に新卒選手のみという原則があるから、稀に格下相手にも惨敗することがあるわね。
2011年と2012年の天皇杯静岡県予選では、大学チームに負けて天皇杯に出場できない事があったの。
それまで静岡県内で最多だった天皇杯出場回数が、ジュビロ磐田に越されてしまったわ。
10年くらい前まで天皇杯出場回数が静岡県内で最多だったのにビックリです。
2014年からプロ選手を解禁して、プロアマ混合チームとなってからは、2014年から2019年の6年間で、5回もJFLを優勝しているの。
むしろJ2でも十分にやっていけると思うわ。
プロ契約が出来るようになったとはいえ、過去にJリーガーとして羽ばたいていった数名のOBを、プロ契約の形で呼び戻しているにすぎないわ。
今後も新卒選手を育成しながら戦力にしていくのが基本であることに変わりはないわね。
日本サッカーの裾野を広げていくには、こういったチームも必要ですね。
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