【横浜FC】後編・市民参加型クラブはなぜ失敗したのか?
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前編は横浜FCがどのように創設されたかの動画でしたね。
今回はソシオ・フリエスタ問題から現在までの解説をするわね。
まずは、前回の動画でもふれた、ソシオ・フリエスタについて軽くおさらいするわね。
ソシオ・フリエスタはFCバルセロナの会員制度をモデルに考案されたもので、年3万円という高額な会費な一方で、横浜FCの意思決定にもある程度参加できることが特徴だったの。
初年度には3,000人以上の会員が集まったわ。
1億円以上集まった計算ですね!
サポーター参加型の制度で良いように思いますが、何が問題だったのですか?
発足当初のソシオ・フリエスタの実態は、芸能プロダクションのファンクラブのようなものだったの。
「意思決定にもある程度参加できる」って部分が、何も決まっていなかったわ。
さすがに1億円以上集めておきながら、何も決まっていないではまずいですね。
そこで横浜フリエスポーツクラブは、1999年のシーズン開始前にソシオ・フリエスタをどういう団体にするか、検討することにしたの。
本来であれば、公益社団法人のような法人組織にするのが一般的なんだけど、横浜フリエスポーツクラブは、横浜FCの立ち上げだけで精一杯で、ソシオ・フリエスタを社団法人のような団体にする時間も余裕もなかったの。
仮に社団法人並みの組織を整備できたとしても、公益法人認定がされるまでには約1年近くかかるので、この時点では100%無理だったわ。
検討した結果、次のように落ち着いたわ。
横浜フリエスポーツクラブは、株主総会を開き、定款を改正し、これらのことが盛り込まれたの。
そして、ソシオ・フリエスタの法人化については、将来の検討課題として先送りされたの。
しかし、法人化は検討すらされずに終わったわ。
最大の理由は、会員の多くはファンやサポーターとして横浜FCを応援できればよく、社団法人等の一員として、何か事業を行いたいような人は少なかったの。
サポーターからしてみれば、ファンクラブのような感じだったのですね。
また、ソシオ・フリエスタとは別に「ソシオ持株会」を作り、その持株会が、横浜フリエスポーツクラブの株式を持つという構想があったの。
この持株会構想は、ソシオ・フリエスタ総会で承認され、横浜フリエスポーツクラブ側からも承認を受けたわ。
たしかに、ちゃんとクラブ経営を監視するなら、団体として株式を取得した方が良いですもんね。
2000年シーズン途中に、8,000万円の赤字になる見通しだったの。
一気に財政難に陥ったわ。
運営するためには、増資をして資金を集めるしかなかったわ。
横浜フリエスポーツクラブは役員会で増資を決定したの。
でも、ソシオ・フリエスタには増資の情報は流れなかったわ。
そんな中、株主の1人から代表取締役の辻野臣保の解任要求があったの。
増資の割り当て先が、一般企業になるのではないかと懸念されたからなの。
そんなことになったら、市民クラブではなく、企業クラブになってしまうわ。
それでも、要求した株主の妥協と奥寺GMの仲介で、合意書を交わして混乱は避けられたわ。
合意の内容は、代表の辻野臣保を始め、株主の3名の株式を第三者に譲渡すること。
その株式は奥寺GMに売買の権限を委任されたわ。
そして売却先や売却時期については、ソシオ・フリエスタに決定してもらうことになったの。
辻野臣保は代表を辞任して、新代表には奥寺康彦が就任したわ。
そして、ソシオ・フリエスタの役員改選選挙が実施されている最中に事件が起こったの。
ソシオの会員宛に横浜フリエスポーツクラブから「協約書」が送付されたの。
その内容は、ソシオ会員は横浜フリエスポーツクラブと直接契約を結ぶことを求めるもので、同意できない場合は、会費を返金するといった内容だったの。
一連のソシオとの協議で、横浜フリエスポーツクラブは
と主張して、ソシオ・フリエスタとの協定書を破棄することを宣言したの。
要するに、ソシオ・フリエスタとは縁を切るってことですよね?
2001年9月に、横浜フリエスポーツクラブはソシオ・フリエスタに代る新しいチームの後援組織、「横浜FCクラブメンバー」を創設したわ。
新社長に就任した奥寺に委任されていた株式をソシオ会員ではなく、クラブメンバーに割り当てたの。
また会員には、体験型のイベントを充実させることなどを提案したわ。
ソシオ・フリエスタと違って、クラブ運営には口を出せない内容なのですね。
これにはソシオ理事会側が反発したわ。
その後、ソシオ・フリエスタは横浜フリエスポーツクラブに対し、横浜地方裁判所に、ソシオの会費の一部と会員名簿の返還を求める仮処分申請を行ったの。
でも申請は却下されたわ。
ソシオ・フリエスタは、東京高等裁判所に即時抗告を行ったけど、これも2003年に却下されたの。
却下理由は
なんだか難しくて、何を言ってるか分からなかったです。
。
。
要するに横浜フリエスポーツクラブが、入会処理や名簿管理をやっているのだから、会費や会員名簿は、横浜フリエスポーツクラブのものだよね。
ソシオ・フリエスタは部外者だから、異議申し立てはできないよ。
ってことね。
とソシオ・フリエスタに通告を行ったの。
ソシオ・フリエスタは「ソシオ横浜」に名称を変更したわ。
ソシオ・フリエスタという制度は事実上の廃止になったわ。
2003年9月に、和解合意書に調印し、この泥沼の対立は区切りを迎えたわ。
ソシオ・フリエスタが、出資はするけど経営は任せる株主とは違って、特殊な団体になってしまったのが原因ですかね。
持株会がもっと早く実現していれば、こうはならなかったかもしれないわね。
なかなか、ヨーロッパのクラブの様にはいかないのですね。
そうね。
やっぱりヨーロッパとは歴史や文化が違うから、そういうところが大きいのかもしれないわね。
創設初年度の1999年シーズンは、リトバルスキー監督のもと、日本フットボールリーグを、18勝3分3敗で優勝したの。
やはり、Jリーグ経験者が多かったから、JFLでは圧倒的な強さだったの。
翌年には正式にJFLの「正会員」になったわ。
JFL正会員になった2000年は、リーグ戦を20勝2分0敗の無敗優勝を決めたの。
創設から2年でJ2昇格ですね!
J2に昇格してからは、どうなのですか?
J2加入後の数年間は、下位をさまよう結果になったわ。
2004年には元日本代表FWの城彰二を獲得したの。
そして、2005年6月には学校・病院給食や企業の社内食堂を展開するレオックジャパンの関連会社フィートエンターテイメントが、横浜FCの第3者割り当て増資を引き受けて、事実上の親会社になったの。
市民クラブとして創設された横浜FCは、ここにきて大転換したのですね!
でも、現在の地域密着型チーム運営は維持すると、フィートエンターテイメントはサポーターに示したわ。
そして、シーズン途中に元日本代表の三浦知良、山口素弘、望月重良など獲得したわ。
それでも勝ちきれなくて、11位でシーズンを終了したの。
転機が訪れたのは2006年からね。
開幕戦に敗北後に監督だった足達勇輔が解任されたわ。
後任監督には、コーチだった高木琢也が監督に就任したわ。
監督交代後の第2節から第18節まで、15戦無敗、連続無失点時間770分も記録したの!
第43節で首位に立ち、そのままJ2初優勝を決めたわ。
でも、J1に参戦した2007年は、最下位になって、1シーズンでJ2に降格しているわ。
以降は13年間J2で戦っていて、2019年シーズンに2位でふたたびJ1に昇格したけど、2年でまた降格。
2022年シーズンはJ2で戦っているわ。
なるほど。
J1に定着するのはなかなか難しいのですね。
ちょっと、疑問なのですが、横浜FCは横浜フリューゲルスを復活させるためにチームを作ったのですよね?
横浜FCが出来た当初は、いずれはフリューゲルスを名乗ると思われたの。
フリューゲルスを復活させるための「フリューゲルス再建基金」もあったからね。
横浜フリューゲルスが復活するのであれば、フリューゲルス再建基金の使用目的としても合ってますよね。
当然、横浜F・マリノスから「フリューゲルス」の名を取り戻し、活動の中心となっていたのは、辻野と共にフリューゲルス存続活動や横浜FC設立した川村環。
横浜FCを「横浜フリューゲルス」にするという活動も行われていたわ。
横浜F・マリノスや横浜FCとも、ある程度話が出来ていて、「サポーターが望むなら検討する」という状況だったの。
ところが、この活動を発表してはみたものの、好意的な反応は少なく、むしろ「いまさらフリューゲルス?
」という批判の方が圧倒的に多かったそうなの。
この頃になると、横浜FC時代しか知らないサポーターがどんどん増えていったわ。
フリューゲルス再建派と横浜FCというチームが好きな人の間で気持ちのズレが生じるようになっていったの。
もはや、横浜FCはフリューゲルスとは別のチームとして歴史を刻んでいたの。
奥寺康彦社長も、フリューゲルスの名称を継承する事を否定したわ。
これによって、フリューゲルス襲名希望のサポーターグループが解散したり、横浜FCから離れていったサポーターもいたみたいね。
あれ?
そうなると、フリューゲルス再建基金はどうなっちゃうのですか?
「横浜フリューゲルス」を取り戻すための基金ですよね?
そうなの!
横浜FCが「横浜フリューゲルス」にならないのであれば、フリューゲルス再建基金の6,700万円は、宙に浮いた状態になっちゃったの。
この内、横浜FCに貸付ていた2,000万円は、横浜FCの観戦チケットで、拠出者に返金されることが決まっていたけど、残りの4,700万円の使い道がなくなってしまったわ。
規約で決められた活動期限の2009年が迫る中、使い道がなく、途方に暮れていた管理委員会に助け船を出してくれたのは横浜FCだったわ。
という提案を再建基金の管理委員会へしたの。
ちょうど、Jリーグからの要請で、横浜市が2009年シーズン終了後に、三ツ沢球技場の改修工事を行う予定だったの。
改修工事は経年劣化で暗くなっていた照明を元通りにし、観客席の椅子を個別席に新調するというものだったわ。
フリューゲルス再建基金の残額を横浜市に寄付をして、三ツ沢球技場の改修工事費用に充てることに決まったの。
横浜市に寄付するのは、フリューゲルス再建基金の規約に反するのでは?
といった反対意見が出たものの、拠出者から返金を求められた分は、200万円程度だったわ。
2010年2月にチケット配布等の事務手続費用を除いたフリューゲルス再建基金の残金の3,700万円が、横浜市へ寄付されたの。
フリューゲルス再建基金から三ツ沢球技場へ行われた寄付の証拠として、横浜市は、三ツ沢球技場へ感謝のレリーフをホームゴール裏の15番入口に取り付けられたの。
「フリューゲルス」の名前が公式に残っている、数少ない場所ですね。
フリューゲルスマニアな方には、ぜひ一度訪れて頂きたいと思っているわ。
それでは、今日はこの辺で!
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