【FC琉球】10年かけてJリーグへ!選手たちが作った市民クラブがJリーグに加盟するエピソード。


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愛衣さん、今日はどんなお話ですか?

今日は「FC琉球」について解説するわ。

FC琉球ですね!
名称からして沖縄のチームって感じですね!

クラブ発足に関しては色々あったチームなのよ!

そうなんですか!
気になります。

それじゃ、FC琉球について解説するわね!

お願いしまーす。

FC琉球は、沖縄市を中心とする沖縄県全県をホームタウンとするサッカークラブ。
2003年2月に沖縄でJリーグ参入を目指すサッカークラブとして創設。
2013年にJリーグ準加盟クラブとして承認され、2014年にJリーグ(J3)に加盟したわ。
クラブ名は沖縄本島を中心に存在した琉球王国に由来しているの。
運営法人は琉球フットボールクラブ株式会社。
ホームスタジアムは沖縄市のタピック県総ひやごんスタジアム、練習場は八重瀬町の東風平運動公園サッカー場、中城村の吉の浦公園ごさまる陸上競技場、南城市の南城市陸上競技場の3カ所。
エンブレムは、阿吽の呼吸を表す「対のシーサー」と、琉球王国の「王冠」などをモチーフとしているわ。
マスコットはジンベーニョ。
ジンベイザメがモチーフね。
ジンベーニョには逸話があって、某水族館で誕生したジンベーニョは、外の世界でサッカーをやってみたいと夢見ていたの。
その大きなサッカー愛を知った神様は心動かされ、足が生える魔法のシューズをプレゼントさたわ。
神様から魔法のシューズを受け取る代わりに「FC琉球をサポーターと共に大海原へと導く」というミッションを受けることとなったわ。
ちなみに、2009年から2013年までは石垣市出身の元ボクシング世界王者の具志堅用高をモデルとした「ぐしけんくん(仮)」を用いていたわ。
Jリーグ入会に伴い退団をしたの。

かなりそのままのキャラですね!
さすがにぐしけんくんをJリーグのマスコットでは使えなかったのですね。

他にもFC琉球は「琉球BOMBERZ」というチアリーディングチームを持っているの。
試合前やハーフタイムで、ゲームや試合会場の盛り上げに貢献しているわ。

そもそも、なんで沖縄でサッカークラブを作ったのですか?

FC琉球は、もともと沖縄にあったサッカークラブ「沖縄かりゆしFC」から枝分かれして出来たチームなの。
沖縄かりゆしFCは1999年6月に、沖縄県の「かりゆしホテルグループ」がスポンサーとなって、「かりゆしホテルズFC」として発足。

かりゆしホテルって、リゾートホテルを運営しているところですよね。
沖縄に行ったときに泊ったことあります。
サッカーチームも持っていたのですね。

創設年の1999年は、天皇杯沖縄県予選会を兼ねた沖縄タイムス杯県サッカー選手権で準優勝する健闘を見せるわ。
沖縄県社会人リーグも順調に、3部→2部→1部とステップアップしていったの。

いきなり強かったのですね!

チームが本格的にJリーグ参戦を目指すようになったのは、沖縄県社会人サッカーリーグ1部だった2001年。
2001年3月には「株式会社沖縄かりゆしフットボールクラブ」を設立して、クラブの法人組織化を行い、チーム名称も沖縄かりゆしFCに改称したわ。
さらには、元日本代表のラモス瑠偉を選手兼テクニカルディレクターとして招聘し、「かりゆしサウシーシャ」というサテライト組織(2軍)や、ユース組織も確立したの。

急ピッチにJリーグ参戦の準備が進められたのですね!

2001年の第81回天皇杯に沖縄県代表として初出場を果たし、3年連続で天皇杯沖縄県代表となったわ。
2002年は九州サッカーリーグで優勝。
JFL昇格がかかった、全国地域リーグ決勝大会に駒を進めたのたけど、惜しくも予選ラウンドで敗退したわ。
全国社会人サッカー選手権大会では、ホンダルミノッソ狭山FCと0-0の同点で両チーム優勝したの。

めっちゃ順調じゃないですか?
どうして分裂したんですか?

2002年10月にラモス瑠偉がテクニカルディレクターを解任されたの。
さらに12月には、所属選手22人中21人が退団の意思を表明したわ。

えぇ!
なんで退団したのですか?

原因はフロントがチームの戦力を下げて、堅実な運営に舵を切ったことが原因ね。
選手らは退団理由について「沖縄からJリーグを目標に頑張ってきたが、社長から勝利至上主義よりも地域密着型を目指すという発言があった。
この方向性の違いが一番の原因」と説明しているわ。
契約面では、今季になってプロ契約ではなく、パートタイムやアルバイト形態になったことなど、待遇面での不満もあったわ。
また、ラモス氏の解任が選手たちの不満を増大させる結果になったとみられるわ。

どうして、いきなり方向転換したのですか?

結局のところ、かりゆし自体に運営資金がなかったみたい。
かりゆしホテルは2004年シーズン限りでスポンサードを打ち切っているわ。

そうなんですね。
確かに資金がなければ戦力ダウンしますよね。

その後もチームは存続したけど、最終的にチームは2010年1月末で解散しているわ。
一方で、沖縄かりゆしFCを退団した選手は2003年2月に「FC琉球」を結成したわ。
純粋に沖縄の子供たちを育てながら、自分たちもレベルアップしていく沖縄密着型のクラブチームを立ち上げたわ。

FC琉球は選手たちが作ったチームなんですね。

沖縄かりゆしFCのテクニカルディレクターを解任されたラモス瑠偉も

と話していて、チームの立ち上げに協力したわ。
でもラモスは、沖縄かりゆしFC側の気持ちを逆なでしたくないと話し、チーム運営には参加しないで、あくまでもアドバイザー的な立場だったの。
FC琉球発足後は沖縄県3部リーグに参戦し、2003年6月に沖縄県社会人サッカー選手権で優勝して、初のタイトルをつかむと、沖縄県3部リーグでも優勝したわ。

3部のチームが県のサッカー選手権で優勝しちゃったんですね。

あまりにも強かったから、3万人の署名を受けた沖縄県サッカー協会社会人連盟の推薦で、翌シーズンは沖縄県1部リーグに特別参入したの。
監督には、元日本代表で読売クラブ(現・東京ヴェルディ)の監督などを歴任した、与那城ジョージ氏を招聘したわ。
2004年8月には天皇杯沖縄県予選準決勝で、因縁の沖縄かりゆしFCを破るなどして、天皇杯沖縄県代表になり天皇杯に進出。
沖縄県リーグ1部でも優勝したわ。
翌2005年には九州リーグに参戦。
MFの永井秀樹を獲得するなどし、九州リーグを2位で、全国地域サッカーリーグ決勝大会に出場し優勝したの。
2006年からの日本フットボールリーグ(JFL)参入が認められたわ。
沖縄県のクラブとして初の全国リーグへの参戦ね、

あっという間にJFLまで駆け上がったんですね!

でもここからが、いばらの道だったの。
2007年のJFLは降格圏の17位になったけど、ロッソ熊本(現ロアッソ熊本)とFC岐阜の2チームがJ2に昇格に加え、アローズ北陸とYKK APが合併し、翌2008年からカターレ富山としての参戦が決まったため、レギュレーションの変更で辛うじて残留できたの。

運が良かったのですね!

2007年12月にはJリーグ昇格を目指し、2002年W杯の日本代表監督のフィリップ・トルシエ氏を総監督に元ブルキナファソ代表監督のジャン・ポール・ラビエ監督に招聘したわ。
さらに元日本代表FWの山下芳輝など大型補強を行い、2008年は「トルシエ革命元年」を謳ったけど、結果は16位と低迷。
翌2009年には、初代監督の新里裕之コーチが監督に復帰も、再び16位に終わった。
16位は入れ替え戦圏内だったけど、2007年同様、2008年、2009年と3季連続でJFLのレギュレーションの変更で生き残ったの。
2010年も10位、2011年、2012年は9位と順位は振るわなかったわ。

JFLではなかなか成果が出なかったのですね。

成績面とは別に、JFL昇格以降、Jリーグ入会のための活動も進めていて、Jリーグの準加盟申請を3回も行ったわ。
2008年に最初の申請を行ったけど、施設の不備などで不認可という審査結果を受けたの。
2011年の申請では継続審議となり、Jリーグから、①ホームスタジアムとなる沖縄県総合運動公園陸上競技場の改修工事の明確化②地元と連携した支援体制の確立という二つの課題を提示されたわ。
そして2013年に、2014年に創設されるJ3への参入を目指し、Jリーグへ3度目の準加盟を申請したわ。
2013年8月には、準加盟承認への課題とされた、沖縄県内のスポンサー確保、財務体質の改善を行い、現在の運営会社である琉球フットボールクラブ株式会社を設立し、2度目の運営会社の移管を行ったわ。
そして2013年9月にやっとJリーグへの準加盟が認めらたの。
2013年11月19日にJリーグへの入会が承認され、2014年からのJ3リーグ参加が決定したわ。
沖縄初のJリーグクラブが誕生したの。
Jリーグ参戦初年度の2014年、2015年は9位と順位は平行線をたどる中、毎年、選手の大量入れ替えが続いたわ。
そんな中、2016年に下部組織のジュニアユースの監督だった金鍾成監督がトップチームの監督に昇格したわ。
それまでは、2011年に加入し、2014年にカマタマーレ讃岐に移籍した元日本代表FWの我那覇和樹や、2015年に加入し、同年に引退したFWの中山悟志などの、過去に実績のある選手を軸にチーム作りをしてきたの。
それを金鍾成監督は若手主体に転換したわ。
同年に藤枝MYFCから加入した、GKの朴一圭がチームをけん引したの。
若手中心のチームに、大宮アルディージャから加入した、元日本代表FWの播戸竜二などの即戦力が加わり、チーム力が向上したわ。
その中で、国学院久我山高校を2013年に卒業後、スペインのウラカン・バレンシアでの武者修行を経て2015年に加入後、3シーズンでリーグ戦6得点だったFWの富樫佑太が、群馬戦の後半4分のゴールを含め、得点ランク2位の16得点と覚醒したの。
「3対1で勝つサッカー」を目指した、金監督が鍛え上げた若手主体のチームに、即戦力が融合したFC琉球は、第17節の藤枝MYFC戦で首位に浮上して以降、独走状態で、J3史上初の3試合を残しての優勝を成し遂げたの。
見事にJ2昇格を決めたわ。
しかも、このシーズンはホームゲームは無敗だったわ。

着実に戦力が上がってますね。

2019年からはJ2が定位置になっているわね。
2019年はシーズン開幕4連勝を達成し、さらに前シーズンから続いていた「ホームゲーム無敗」をJリーグ記録更新まで継続するなど、好調が続いたの。
でも中盤戦では連敗が続いたわ。
それでもシーズン途中で獲得した元日本代表の小野伸二らがフィットし成績が向上して、J2初年度を13勝10分19敗の14位で終えたわ。
2020年シーズンは、開幕以降9試合は勝てない状況が続いたわ。
シーズン後半では、持ち前の攻撃力が発揮し、守備を持ち直しながら徐々に調子を上げていったけど、順位は昨季より下げ、14勝8分20敗の16位で終えたの。
2021年シーズンは、前半戦は暫定首位に立つこともあるなど、優勝争いに絡んでいたけど、後半戦に入ると徐々に失速。
第28節から第34節までの7試合を1分け6敗の成績で順位を8位まで落としたわ。
10月20日にヘッドコーチを務めていた喜名哲裕を監督にしたけど、最終的に18勝11分13敗で9位となり、J2としての最上位でシーズンを終えたわ。

年々少しずつレベルアップしている感じですね。
このままいけば、いつかはJ1に昇格できるかもしれませんね。

そうね。
いつかJ1でも見てみたいわね!
それでは、今回はこの辺で!

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