【しくじり解説】元サッカー日本代表監督トルシエとは?・後編(2002年日韓W杯)
このブログの内容はYoutubeでも、ご視聴いただけます。
今日はトルシエ監督後編って事で、日本代表監督就任からの話をしていくよ!
トルシエ監督の経歴や日本代表の就任に至った経緯はこちらの動画をご覧くださいね。
っていうか、またその写真ですか?
確かに、否定はしませんが・・・そんなことより、日本代表監督に就任してからの事を教えてください。
そうだったわ・・・じゃ~気を取り直して、日本代表監督に就任した後の話をするね。
まずは、ナイジェリアでFIFAワールドユースが開催されたわ。
日本は小野伸二、本山雅志、高原直泰、稲本潤一、遠藤保仁、小笠原満男、中田浩二らを擁して準優勝を果たしたの。
FIFA主催の国際大会で日本が決勝に進出するのは、史上初の快挙だったわ。
秋には中田英寿も合流したオリンピック代表を率いて、2大会連続のオリンピック出場を決めるの。
でも、フル代表では特別招待国として参加したコパ・アメリカ(南米選手権)では2敗1分けの1次リーグ敗退に終わるなど、ほとんど実績を残せずに、批判の声も現れ始めたわ。
2000年になってからオリンピック代表をA代表に合流させるも、2月のカールスバーグカップでメキシコに敗れると、続く香港リーグ選抜には引き分け、中国と引き分け、韓国に敗戦とこの頃の成績は悪かったわ。
サッカー協会幹部から解任の声が挙がり始めたけど、当時のサッカー協会会長の岡野俊一郎の判断でモロッコで行われるハッサン二世国王杯と日本国内で行われるキリンカップの成績で、去就を決めることになるわ。
そして、迎えたハッサン二世国王杯ではほぼベストメンバーを組んできたの。
前回W杯王者・フランスと2-2で引き分け、ジャマイカに4-0で大勝。
帰国後のキリンカップではボリビア、スロバキアと対戦し、1勝1分。
合計4試合で2勝2分という成績を残し、事実上解任を免れたわ。
シドニーオリンピックでは32年ぶりとなる決勝トーナメント進出。
準々決勝のアメリカ合衆国とはPK戦までもつれ込んだわ。
そう。
ワールドカップ・アメリカ大会決勝のロベルト・バッジョみたいだったわ。
2000年10月にレバノンで開催されたアジアカップ2000では、アウェイ色の強い中東開催のアジア杯において東アジア勢としては初めての優勝したわ。
トルシエは2000年度のAFC年間最優秀監督を受賞するわ。
そう思ったのも、つかの間の話で、2001年3月のフランスのサン=ドニで行われたフランス代表との親善試合で0-5で大敗するの。
この大敗があって、続く4月のスペイン戦では、実質5バックの超守備的な布陣で臨み、終了間際に失点し、0-1で敗れるの。
攻撃する意思が感じられない戦術に批判があがったわ。
でも、トルシエはこのスペイン戦を無失点で終える事で、守備の自信を取り戻させるのが目的だった。
と語っていたわ。
それでも終了間際までは無失点を続けたことを強調し、自信回復に繋げたわ。
その甲斐もあって、2001年6月のFIFAコンフェデレーションズカップでは、試合の相手や展開に合わせて攻守のバランスを変化させ、5試合で6得点1失点の戦績で準優勝したわ。
A代表のFIFA主催の国際大会での決勝進出は史上初だったの。
それでも2ヶ月半前に大敗した相手に互角の勝負ができたわ。
ただ、このコンフェデレーションズカップで、トルシエと中田がもめたのよ。
コンフェデレーションズカップは6月に開催されたから、欧州のリーグはまだシーズン中だったの。
だから欧州で活躍している主要選手は来ていなかったわ。
その頃は中田が所属するローマに8年ぶりのリーグ優勝がかかっていたの。
コンフェデレーションズカップは、翌年に控えたワールドカップのプレ大会ということもあり、協会はローマと交渉してグループステージ3試合だけという条件で、中田を呼び戻したわ。
そうしたら、日本はグループステージを突破してしまったわ。
協会は再度ローマと交渉して、もう1試合だけ残ることになったの。
ところが、中田のFKでその試合にも勝ってしまったの。
それで、試合後にトルシエと中田と協会で、3時間にもおよぶ話し合いが行なわれたわ。
FIFAの主催する世界大会で優勝するチャンスだから残れと言うトルシエに対し、中田はローマから戻って来いって言われているし、俺の判断ではできないから協会が決めてくれと言う。
それで、協会とトルシエの間で大議論になったの。
協会は、たしかに世界一になるチャンスではあるけれど、中田の今後のことを考えると、日本人初のセリエA優勝に立ち合わせたいという意見だった。
トルシエにはシーズン終了後に中田はパルマに移籍するという情報が入っていたから、別にローマと衝突しても問題ない、だから戻る必要はないだろうと踏んでいたらしいわ。
結局、中田はイタリアに帰国することになり、それに怒ったトルシエと中田の確執が表面化したの。
中田はローマに帰るとき、他の選手に「しばらく代表には来ないかもしれない」と言い残したらしいわ。
まぁ、トルシエからしたら進退がかかってるからね。
でも、トルシエは「中田なしではワールドカップで勝てない」ということもわかっていたから、ジレンマがあったようね。
さらに、2002年6月の日韓ワールドカップ本大会では、有力視されていた中村俊輔を、代表から外したことで話題を呼んだわ。
中村俊輔に関しては、「トルシエ監督の戦術に合わなかった」とか、「トルシエ監督好みの選手ではなかった」みたいな事がささやかれたの。
その後、その真相をトルシエ自身が、試合に出場させなかったことや代表から外した理由として語っているわ。
そのポストには彼以上に成熟した選手がたくさんいた。
もちろん、ポテンシャルを買ってメンバーに選ぶこともあり得た。
ただ、彼は足首を故障していた。
W杯直前に3週間のスペイン合宿に彼を連れて行ったが、一度もみんなと同じ練習メニューができなかった。
と語っていたわ。
当時は理解されなかった、中村俊輔外しも、しっかりトルシエの中では考えが固まっていたということね。
でも、当時「あいつは暗い。
」「あいつがベンチにいると、チームの士気がさがる」って、発言したとの報道もあったようだから、トルシエ監督好みの選手ではなかったっていうのは、あるのかもね。
余談だけど、中村俊輔自身もその反省があったのか、2010年のワールドカップの時に控えが多くなった際は率先してベンチから盛り上げて、チームの士気を上げたと言われているわ。
そんな、世間を騒がしたトルシエだけど、ワールドカップ本大会は、グループリーグ初戦のベルギー戦は2-2で引き分け、ロシア戦は1-0で勝利、チュニジア戦も2-0で勝利し、通算2勝1分でグループリーグ1位の成績で突破し、日本代表を初の決勝トーナメント進出に導いたわ。
でも、決勝トーナメント1回戦、トルコ戦は0-1で敗れちゃったわ。
それでもベスト16まで進んだのだから、すごい実績ですよ。
そして、W杯終了後、任期満了で監督を退任したわ。
そんな結果を残したトルシエだけど、協会内の人たちからは嫌われていたみたい。
ある協会関係者は国民的イベントである、自国開催のワールドカップ前にもかかわらず、とにかくマスコミ嫌いで取材を受けないし、スポンサーに文句をつけたりやりたい放題、かなり激情家で、言っていることは支離滅裂なうえに、コロコロ変わる。
トルシエにオファーすることは2度とないな。
と言っていたわ。
それほど、この4年間は苦労させられたみたいね。
それでも、監督としての手腕は確かだったみたい。
当時Jリーグの専務理事だった木之本興三さんは、彼は本当に四六時中サッカーのことしか考えていない。
人間性は正直どうかと思う面もあるが、指導者としての態度は理想的な人物。
と述べているわ。
ヴェンゲルも彼は仕事に対しては常に真剣。
中途半端なことはせず、勤勉で真面目、そして厳しいと評価しているわ。
そして、黄金世代の中心、小野伸二は、怒り方がすごくうまいんですよ。
それで選手がピリッとするし、『何くそ!
』って思って、選手みんなが団結していくんですよね。
僕にとっては、歴代代表監督の中ではトップです。
と評している。
自らが共通の敵になって、チームをまとめたんだね。
そして、すごくどうでもいい話だけど、通訳だったダバディから滝川クリステルさんを紹介されたとき「フランス語で直接会話できる才色兼備な女性」として大変気に入っていたらしいわ。
今では進次郎の嫁ですけどね。
そんなトルシエ監督、今はどうしてるんですかね?
このチャンネルでは、日本サッカーの事件や生い立ちなどを解説しています。
面白かった、参考になった等があれば、高評価、チャンネル登録をお願いします。
ご視聴、ありがとうございました。