【しくじり解説】元サッカー日本代表監督トルシエとは?・前編(2002年日韓W杯)
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トルシエって、2002年の日韓ワールドカップの時の監督だった人ですよね?
川島海荷ちゃんに“リフティング”を直接指導して、Wピースしている写真だよ。
プライベートは知らないけど、サッカーに対しては相当厳しい人だよ。
この写真からはそうは見えないけど。
。
。
それじゃ、トルシエ監督について教えてくださーい。
OK!
分かったわ!
本日のテーマはフィリップ・トルシエ
それでは、よろしくお願いします。
(なんで冷や汗かいてるの?
?
)
ワールドカップ・フランス大会が終わったあと、日本サッカー協会は2002年の日韓ワールドカップに向けての監督選考を行ったわ。
若い黄金世代を主力としていかに育てるかを重視したの。
当時の日本サッカー協会は「2002年の監督はヴェンゲルがいいなぁ」と、94年~95年にかけて名古屋グランパスの監督をしていたアーセン・ヴェンゲルに白羽の矢を立てたの。
ちょー大物監督ですね!
っていうか、名古屋グランパスの監督してたんですか!
そうだよー!
ただ、ヴェンゲルはアーセナルFCの契約が残っているために断られたわ。
日本サッカー協会は直接フランスサッカー協会と交渉し、ちょうどスケジュールの空いていたフィリップ・トルシエを紹介されたの。
よく「ヴェンゲルがトルシエを日本代表監督へ推薦した」と言われているけど、実際は、トルシエを日本サッカー協会へ推薦したのはフランスサッカー協会で、ヴェンゲルは直接には関与していないの。
ただ、ヴェンゲルはトルシエと知り合いだったから、フランス協会によってリストアップされた候補者に名前が挙がっていたトルシエを自分の代わりに推したと言われているわ。
日本サッカー協会がトルシエと面談した時に、トルシエは2002年は日本でワールドカップもあるし、日本はいままさにライジングサンだ。
日本サッカーのためにやりたいと、熱く語っていたそうよ。
日本サッカー協会はヴェンゲルにトルシエの能力や人物像などについて相談しつつ、契約を結ぶことにしたわ。
フランスU-15代表の監督経験もあったので、若手育成も期待できる点も評価されたみたいね。
ちなみに、トルシエに決める前に、協会はもう一度ヴェンゲルに「2002年W杯の日本代表監督は貴方しかいない」と手紙を出したけど、再度断られたそうよ。
とにかく、日本代表としては、オフト、ファルカンに次ぐ、3人目の外国人監督となったわ。
契約期間は2年で、その後2年はオプション。
本当は、2年契約が満了した時点でヴェンゲルに監督を交代することが最初から決まっていたらしいわ。
ただ、ヴェンゲル側の事情により、その話が流れたため、トルシエとの契約を延長せざるを得なかったらしいの。
トルシエはA代表とオリンピック代表、ユース代表の監督を兼任。
ユース代表監督は、当初の契約には入っていなかったけど、ユース世代の選手を見たときにこいつら、巧いよ。
ボールも速く動くし、テクニックもある。
ホントに凄い才能を持った選手たちだ。
この世代の技術力はA代表のベテランたちをはるかに凌駕している。
彼らを将来のチームの中核に据えれば、日本の可能性は大きく広がると、絶賛したそうよ。
トルシエ自ら「ユースの監督もやらせてくれ!
」って協会に志願したそうよ。
ユースの監督は当初の契約外だったから無報酬だったの。
若い世代をベースに、ユース代表からオリンピック代表、A代表へとチームを順次統合させて、ワールドカップを戦うチームを構築するシナリオを描いていたのね。
トルシエは、とにかく組織的なチームプレーを重視するタイプなの。
世界最高のギタリストであるジミ・ヘンドリックスが自分のバンドにいても、40秒間のソロプレーは許さない。
って言うくらいルールを徹底するスタイルね。
ヨーロッパサッカーって感じですね。
(っていうか、なぜその写真?
?
)
基本的な戦術はフラットスリーと言われる、3-5-2(3-4-1-2)システムを軸にしていたの。
フラットスリーの主な特徴はディフェンダー3人をフラットに並べて高く押し上げ、コンパクトさを維持。
オフサイドエリアを、相手フォワードを牽制するための手段として使う。
守備的な選手を配置した厚い中盤でプレッシャーをかける。
中央型のMFを両サイドに配置する。
ディフェンを高く保つのがポイントになりそうですね。
更にトルシエはオートマティズムを重要視し、ボールの位置や状況に応じて、選手が自動的に動けることを理想としていたの。
このオートマティズムのメリットはメンバーが入れ替わってもチームの質が大きく変化しないこと。
デメリットは、試合のリズムに変化をつけるのに交代選手の個性に頼らざるを得ないことが挙げられているわ。
平たく言えば、そういうことね。
今思えば、当時の日本サッカーにはそういうのが必要だったのかもしれないわ。
トルシエはフランスのアマチュアクラブでプレーした後、フランス2部リーグのアングレームでプロデビューしているわ。
トルシエを見出したアンリスキバ監督がクラブを去ると、後任の監督とはそりが合わず、ロジェ・ルメールが監督を務めるフランス2部のレッドスターに移籍したの。
トルシエは【もっとも影響力の強い監督】として、「スキバ」と「ルメール」の名前を挙げているわ。
選手生活と並行して学業にも励み、運動療法士の資格を得たわ。
その後、フランスの2つのクラブを渡り歩き、1983年に初級の指導者ライセンスを取得して、U-15フランス代表の指導を打診されたの。
トルシエは、28歳で現役を引退して、指導者へと転じたわ。
その後は監督として、U-15フランス代表の指導、フランスのアマチュアクラブの監督に就任した後、フランス3部リーグのASレッドスター93の監督に就任したわ。
そして、そのレッドスターを2部に昇格させたの。
トルシエの代名詞でもある「フラット3」は、この時に形になったみたいね。
1988-89シーズンの終了後、レッドスターはトルシエに留任を要請したが、彼は予算が潤沢な2部リーグのUSクレテイユからのオファーを選択したの。
でも、クレテイユではクラブ幹部との確執により、就任から3ヶ月で監督を辞任したわ。
その後はフランスを出て、コートジボワールのASECミモザ・アビジャンの監督に就任したの。
選手たちが「甘やかされている」と感じたトルシエは、遅刻禁止、食事管理の徹底をはじめとする厳しい規律をクラブにもたらして、無敗のまま3シーズン連続で、国内リーグ優勝、カップ戦優勝に導いたの。
当時から毒舌家だったみたいで、常軌を逸した行動や発言は地元の人々の関心を集め、ジャーナリストたちに数多くの話題を提供したわ。
この時期に彼は「白い呪術師」と呼ばれるようになったの。
そして、1994年FIFAワールドカップ出場を目指す、コートジボワール代表監督に就任したわ。
トルシエ率いるコートジボワール代表は無敗でワールドカップ・アフリカ予選グループAの首位になったわ。
メディアとサポーターはトルシエを支持したんだけどね。
トルシエ退任後のコートジボワール代表は、ワールドカップ本大会出場を逃したわ。
その後は、南アフリカのクラブチームで2つのカップ戦に優勝。
モロッコ1部リーグの監督にシーズン途中から就任し、下位に低迷していたチームを最終的に5位に引き上げたわ。
モロッコでもう1クラブ就任した後、1997年3月にナイジェリア代表監督に就任したの。
ナイジェリア代表は、アフリカ予選グループの首位として本大会出場を達成するも、トルシエは給与未払いを理由にナイジェリアサッカー協会と対立したわ。
給与未払いはひどいですね。
で、どうなったんですか?
1997年10月にブルキナファソ代表監督に就任したの。
ブルキナファソはアフリカネイションズカップ開催国で、契約期間は大会終了までの5ヵ月間だったわ。
ブルキナファソ代表は直前のワールドカップ地区予選では6戦6敗、アフリカサッカー連盟の52ヵ国中48位にランクされている弱小チームだったの。
アフリカネイションズカップでは、準決勝まで勝ち上がり、ブルキナファソ代表はたった5ヶ月でアフリカで4位のチームになったわ。
ブルキナファソ代表監督退任後、1998年FIFAワールドカップ出場を控えた南アフリカ共和国代表監督に就任したわ。
同国初の出場となったワールドカップ・フランス大会では2分1敗で1次リーグ敗退、契約期間満了に伴い退任したわ。
でも、クラブのフロントや協会ともめるのは、当時からあったみたいね。
まあまあ。
後編では、トルシエと中田英寿の確執とか、仲村俊輔の落選の真相とかにふれていく予定だから、お楽しみに!
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