【しくじり解説】W杯予選中のサッカー日本代表監督更迭。
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こんにちはアシスタントのまあやです。
ねーねー、愛衣さん。
日本が初めてワールドカップ出場を決めた時の予選はどんなだったんですか?
うん。
滅茶苦茶にひどかった。
結果的にはワールドカップに出場はできたんだけど、最後の最後まで突破できるか分からないギリギリの状況だったわ。
アジア予選中に監督交代もあったしね。
そう。
当時コーチだった岡田さんを監督にして気を引き締めたのね。
本当はそれよりも前に監督交代論がサッカー協会内にあったの。
上層部と強化委員会がもめててガタガタだったのよ。
関西学院大学卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)での選手生活を経て、1967年に指導者になったの。
正直、選手時代はパッとしなかったみたい。
現役引退後はそのままヤンマーのコーチになったわ。
いい選手がいい監督になるとは限らないし、逆に無名選手が名将になることだってあるわ。
そんな加茂監督は1974年に日本人初のプロ契約監督として日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。
新興クラブだった日産自動車サッカー部を日本サッカーリーグ1部優勝1回、JSLカップ優勝1回、天皇杯優勝3回の強豪に育てあげたの。
日産では監督という枠に収まらない、組織づくりや環境整備といったゼネラルマネージャー的な手腕も高い評価を受けたわ。
当時ウィングだった木村和司をMFとして、MFだったロペスをFWに起用し覚醒させるなど、選手の適材適所を見抜き、コンバートさせる眼にも長けていたの。
Jリーグが始まる少し前の1991年に全日空の監督になるわ。
1993年度に横浜フリューゲルスを天皇杯に優勝まで押し上げたわ。
就任したクラブでは必ずタイトルをとってるんですね。
そんな加茂監督は1994年12月1日より11ヵ月の契約期間で日本代表の監督に就任したわ。
前任のファルカン時代に「コミュニケーション不足」が問題になったことから、日本人の加茂監督に白羽の矢が立ったの。
就任直後の1995年1月にインターコンチネンタル選手権が控えていたんだけど、チーム構築の時間的余裕がないこともあり、まず当初はファルカン時代には代表から外されていたラモス瑠偉を始めとした経験豊富なベテラン選手を中心に編成し、その後、徐々に若手選手へとシフトしていったの。
日本代表でも横浜フリューゲルス時代同様に、ゾーンプレスで追い込んで、素早く攻撃に転じるサッカーを浸透させようとしたの。
ところが、戦術はゾーンプレスばかりで、相手チームにロングボールを入れられると対応策がないことが問題視され始めるの。
とくにアジアカップ予選などで中東のチームに苦戦していたから、日本サッカー協会 (JFA)の強化委員会では「このままじゃマズい、ワールドカップも危ない」という話になり、何度も交代論が出たわ。
1995年11月の契約満了を前にして、強化委員会は「加茂続投はベストの選択ではない」と判断し、契約の切れる加茂監督に代えて、次はヴェルディ川崎で結果を出しているネルシーニョがいいじゃないか?
という意見が上がってきたの。
それを受けた協会の幹部会でも、この時は監督交代もやむなしという結論になるわ。
加茂監督の方も横浜フリューゲルスに復帰する話が進んでいたようなの。
このときすでにJFAはネルシーニョに代表監督の打診をしていたの。
サッカー専門誌やニュースなどでは「ネルシーニョ日本代表監督」の誕生はほぼ既定事実として報じられていたわ。
そしてセッティングされた記者会見。
長沼会長は会見の席で加茂監督に続投してもらうことになりました。
これでワールドカップに出場できなかったら、責任を取って私が辞めるとコメントしたわ。
その第一声を耳にした途端、日本中がフリーズしたわ。
実はネルシーニョ側がけっこういい値段を提示してきて、条件面が合わずにいたの。
協会側は「こんな額は無理だ」とネルシーニョ側に伝えて、大した交渉もせずに、一方的に代表監督の打診を断ったらしいの。
交渉だから最初は高い希望額を提示することは珍しくないんだけどね。
ネルシーニョにしてみれば、頼んでおきながら、まともに交渉もせずに、一方的に話を反故にされたと思ったみたいね。
ネルシーニョは会見でミカンの籠の中には腐ったミカンが2つや3つは入っているものだ!
と協会幹部を批判していたわ。
これがいわゆる「ネルシーニョ腐ったミカン事件」ね。
これをきっかけにサッカー界はさらにヒートアップしていくの。
ネルシーニョを推していた強化委員長らは、辞表を叩きつけて辞めていったわ。
ここで協会幹部と強化員会で確執が生まれたんですね。
サポーターはどう思ったんですか?
サポーターもだまってなくて、代表戦のスタンドには当時の協会会長の名前(長沼健)を揶揄して<狼少年ケン>の横断幕が掲げられた。
狼少年ケンサポーターも上手いこと言いますねー!
ネルシーニョ待望論が多かったんですね。
とにかく、JFA幹部会の判断により、土壇場で加茂監督の契約延長が決まったわ。
1年後の1996年12月のAFCアジアカップでは、グループステージを3戦全勝で突破したが、準々決勝でクウェート代表に0-2で敗れたの。
加茂監督はこのアジアカップでは優勝に主眼を置かず、テスト的な場と位置づけていたが、クウェート代表戦での弱点を突かれた負け方から、協会内部では加茂監督に対する不信感が広がる結果になったわ。
そして、ワールドカップ・アジア最終予選が始まったわ。
初戦のウズベキスタン戦は、カズの4得点もあり、6-3で大勝したけど、格下のウズベキスタンに後半だけでのまさかの3失点。
2試合目のアウェイのアラブ首長国連邦代表戦は引き分け、3試合目となったホームの韓国代表戦は1-0とリードしたけど、ある選手のマークをさせるために、後半にFW呂比須ワグナーに代えてDF秋田豊を投入したの。
でも、そのマークしようとした相手選手は、秋田の投入直前に交代したの。
結局この見事な采配が裏目に出て、1-2の逆転負けを喫したわ。
この辺りから、メディアやファンの間で、加茂監督批に対する判の声が高まったの。
強化委員会は加茂監督の戦術面を分析しており、加茂監督は初めから、「こういうときはこうする」と決め込んでいて、采配に柔軟性がないと判断したわ。
それで、臨機応変に対応できない監督ではダメだということになり、韓国戦後、強化委員会のメンバーが川淵副会長に直談判に行ったそうなの。
3試合やって日本の戦い方は相手に完全に読まれている。
どこも日本対策をとってきていて、加茂監督では勝てない。
それに対して、川淵副会長は、「いま、そんな話は聞きたくない」と言って取り合わず、そのままカザフスタン、ウズベキスタンのアウェイ戦を迎えた。
でも、前強化委員長だった川淵副会長も、加茂監督では厳しいということはわかっていたの。
たとえ、カザフスタン戦に勝っても、1-0だったらダメだなぁと思っていたらしく、もう交代させようと自分の中では決めていたみたいなの。
そして行われたアウェイのカザフスタン戦は、コーナーキックから秋田豊のヘディングで先制するも、ロスタイムに同点ゴールを決められて引き分け。
首位の韓国との勝点差は7に開き、1位通過となる可能性はほぼ消滅したわ。
そこで、そのまま試合後に緊急幹部会が開かれたのやっと、協会の上層部が「この状況を打破するには監督を代えるしかない」という結論になり、加茂監督の更送が決定するわ。
予選途中での監督解任は、日本代表の歴史上初めてのことだったわ。
そしてコーチから昇格した岡田武史新監督の下、見事によみがえった日本代表は、順調にワールドカップ本大会行きの切符を…
って、そう安直には進まなかったわ。
続くウズベキスタン戦も引き分けたの。
もはやワールドカップの出場は望みが薄かったわ。
さらには、UAE戦後、群衆とカズが一触即発になるわ。
試合後の国立競技場正面ゲート、鉄柵の向こうから投げ込まれる鉄パイプ、テレビ中継車の上で暴れるサポーター。
そんな群衆に、カズは「こっちへ来い」と怒鳴って挑みかかろうとするの。
それを懸命に止める報道陣。
そんな混乱の現場に、投げ込まれた何かがぶつかる金属音とパトカーのサイレンが響いていたわ。
ひぇえええええええ!
大惨事だぁあああ!
そんなにひどい状況だったんだ。
あれはひどかったわ。
それでも、グループリーグの残り2戦、韓国、カザフスタンに連勝し、2位に返り咲いた日本代表は、プレーオフに進出できたわ。
まぁ、韓国がすでに1位突破を決めていたことと、UAEが勝ち点を伸ばせなくて、自滅したことが大きかったけどね。
そして、アジアの第3枠をかけたプレーオフ。
ジョホールバルでイランと激突し、岡野雅行のVゴールで、日本サッカー史上初めてのワールドカップ出場をつかむことになったわ。
協会幹部と強化委員会の対立で、協会内部はガタガタだったのも、ワールドカップ予選を難しくした要因かもね。
もちろん、加茂監督が対応できなかったのが原因ではあるけれど、結局、加茂監督は就任当初から、強化委員会の人たちにあまり支持されなかったからね。
なんで監督にしたのかな?
って感じですね。
やっぱり協会はしっかりバックアップしないと、代表強化にはつながらないですね。
日本代表監督時代は批判の的になることの多かった加茂監督だけど、日本サッカー史に残る名監督の1人であることは間違いないわ。
個人的には、ネルシーニョ日本代表監督っていうのも、見てみたかったけどね。
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