【ザスパクサツ群馬】(前編)・温泉地に誕生したサッカーグラブの壮絶な物語。


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愛衣さん、今日はどんなお話ですか?

今日は「ザスパクサツ群馬」について、解説するわ。

ザスパクサツ群馬ですか?
草津温泉のサッカーチームっていうイメージが強いですね!

クラブ創成期はいろいろ大変だったのよ!

そうなんですか!
気になります。

今回はちょっと長いので、前後編に分けて話をするね!

お願いしまーす。

ザスパクサツ群馬は、草津温泉で有名な群馬県吾妻郡草津町に1995年に創設された専門学校「東日本サッカーアカデミー」に所属する選手を中心に編成された「リエゾン草津」というチームが前身のクラブなの。
2002年、将来のJリーグ加盟を見越して「ザスパ草津」へ名称を変更。
クラブ名は、英語で温泉を意味する「スパ(spa)」とチーム誕生の地である草津温泉に由来するわ。

温泉地のJリーグクラブって珍しいですね。

Jリーグ加盟前は「温泉地で働きながらJリーグを目指す選手たち」とマスコミで取り上げられたこともあるわね。
ホームタウンは群馬県吾妻郡草津町、群馬県前橋市を中心とする群馬県全県。
ホームスタジアムは正田醤油スタジアム群馬。
練習場は前橋市下増田運動場やサンデンフットボールパーク、敷島公園などとなっていて、クラブ主体の練習場やクラブハウスを有していなかったの。
しかし、2022年2月8日にチームのユニフォームパートナーで、筆頭株主の一員のカインズより、グラウンドとクラブハウスを2023年に整備し、練習場として活用する計画が公表されたわ。

選手にとっても、ちゃんとした練習場があると、士気が上がりますね!

2013年2月1日から「ザスパクサツ群馬」にチーム名を変更したわ。
チーム名を変更した理由なんだけど、群馬県全域をホームタウンとしたためザスパ草津だと、草津町のチームというニュアンスが強く、広く群馬県に愛されるチームを明確にしたいとしたの。
また「ザスパ草津・群馬」にしてしまうと、略称が「ザスパ群馬」と略される可能性があるため、カタカナの「ザスパクサツ」としたの。

なるほどー。
確かに、ジェフユナイテッド市原・千葉は、略称がジェフ千葉になってますもんね。

運営会社は株式会社ザスパで、2019年までは株式会社草津温泉フットボールクラブという商号だったわ。
クラブマスコットは、2002年に誕生した湯友(ゆうと)。
クラブエンブレムは草津町の前口諏訪神社にて行なわれる伝統行事「前口の獅子舞」をモチーフにしているの。
マスコットもエンブレムもモチーフは獅子で、草津町にある前口諏訪神社の獅子舞に由来しているわ。
サポーターは応援に湯揉みを採用しているの。
湯揉みをする女性は、ゴール裏に湯揉みのかすりの着物と姉さんかぶりをまとって登場するわ。
祝事などがあった際には湯掛けが行われるの。
Jリーグ昇格決定時には、この湯掛けが選手・サポーター・スタッフが一体となって草津温泉の湯畑で行われたわ。

そもそも、なんで草津にサッカーチームができたのですか?

冒頭でも話した通り、ザスパ草津の前身であるリエゾン草津は、1995年に草津町に設立された、東日本サッカーアカデミーという専門学校を母体として作られたチームだったの。
当初、アカデミーは草津ではなく、隣の嬬恋村にできる予定だったわ。
計画は1994年からあったのだけど、当時はJリーグブームの真っ最中で、それに目を付けた前橋のスポーツマネジメント業者が嬬恋村の個人事業主に、「サッカービジネスをやらないか?
」と持ちかけたのがそもそもの始まりなの。
これに吾妻清掃社という会社が加わり、サッカーフェスティバルを開催するなど、話は順調に進んでいったわ。
しかし、最終局面で折り合いがつかず、嬬恋村側がアカデミー設立から離脱してしまったの。
すでに生徒募集は始まっていて、代替地を決めなければならなかったわ。
そこで白羽の矢が立ったのが、隣の草津町だったの。

なんで草津だったのですか?

草津町にはグラウンドも豊富にあり、過去にサッカーフェスティバルを多数開催していたからね。
1995年4月に吾妻清掃社の社長をオーナーとし、草津で旅館経営をしていた、『飯島庄二』という人物が施設を提供し、アカデミーは開校したの。
そして、アカデミーに所属する選手を中心として「リエゾン草津フットボールクラブ」を設立。
選手の育成や将来のJリーグ加盟を目的としながら、群馬県社会人サッカーリーグ4部に所属することになったの。

Jリーグ加盟を目標にしていたんですね!
ユニフォームもACミランみたいな感じですね!

アカデミーには、モンテネグロ出身(旧ユーゴスラビア)の『ラトコ・ステボビッチ』を講師兼監督として招聘したわ。
ラトコ・ステボビッチは、リエゾン草津にユーゴスラビアスタイルを採り入れ、初年度の1995年には群馬県リーグ4部を優勝。
1996年には群馬県リーグ3部で優勝。
さらに天皇杯県予選で準決勝まで進出したの。
1997年には群馬県リーグ2部で優勝し、1部参入を決めたわ。

めっちゃ順調に勝ち上がってますね!

順風満帆かと思われたリエゾン草津だったけど、ここで問題が起きたわ。

なにがあったのですか?

オーナーと講師兼監督のラトコの意見が対立したの。
ついに1997年シーズン限りで、ラトコは解雇されてしまったわ。

ええーー!

解雇ですか!

リエゾン草津は鈴木隣(すずきちかし)を監督に迎え、1998年シーズンをスタートさせたわ。
ドイツでライセンスを取得した鈴木隣は、ドイツ式の指導法を打ち出したの。
しかし、リエゾン草津は、ラトコの影響が強いユーゴスラビアスタイル。
選手と監督のサッカー観の違いが、チーム内に対立構造を作り上げてしまったわ。
結果、成績も全くふるわず、リエゾン草津は1部から降格し、鈴木監督は98年シーズンの途中でチームを去ることになったわ。

ラトコだったら関東リーグに昇格してたかもしれないですね。

まぁ、結果論だけどね。
一方でアカデミーの経営状態は、当初の予想を下回る数しか生徒が集まらず、経営状態は火の車だったの。
サッカークラブ経営に関しては、まったくの素人であった地元企業の社長がオーナーであったため、有効策を打ち出せないまま、学校とチームの経営状態は悪化していったの。
4期生の入学者は20名を割り込み、5期生の生徒募集に至っては、3人しか応募がなかったわ。
ラトコがいなくなったことで、アカデミーのカリキュラムもかなりいいかげんな内容になってしまい、生徒たちが次々と離脱したわ。
経営は完全に行き詰まっていたの。

まざに絶望的状況ですね。

そして、99年1月、寮に集まった選手たちを前に、オーナーはアカデミーの閉鎖を告げたわ。
選手たちは寮にいることもできなくなってしまうの。

いきなりですね。
チームはどうなっちゃうんですか?

チームの存続は、選手たちの意志に任されることになったの。
自腹を切ってでもここに残り、サッカーを続けるか。
それとも、ここでチームを去るか。
選手たちは二者択一を迫られたわ。
大半の選手はチームから去っていったけど、キャプテンの『木村直樹』をはじめ、数名の選手が、リエゾン草津としての活動を続ける方針を示し、リエゾン草津は存続することになったわ。

バックアップは何もないのに、どうやって存続させるんですか?

チームを存続させるためには、選手が仕事をして活動費を捻出しなければならなかったわ。
彼らは草津町に家を借りて、狭い部屋の中で集団生活を続け、朝も夜も働きながらリエゾン草津を運営したの。
中でもチームのキャプテンでもあった木村は、監督も運営もひとりでこなしていたわ。

自腹でチーム運営していたんですね!

寮も使えない、練習場も使えない。
そんな八方ふさがりの状況の中、木村をはじめとする選手たちは、練習場確保のために、さまざまな方面をしらみつぶしに当たったの。
やがて地元の旅館を中心に、木村たちの努力が理解され、協力してくれる人たちも現れるようになったわ。
そこで生まれた関係が、のちにチームがザスパ草津となってから、選手たちが働く「プレイヤーズパートナー」となり、さらには地域とのパイプ役へと発展していったわ。
役所内にも、木村たちの熱意に打たれ、グラウンドが使用できるように手配してくれる人も現れたの。
このように、理解してくれる人たちが増える中、木村たちも、地元の子供たちにサッカーを教えたりする機会を、積極的に作っていくようになるわ。

だんだんと地域に根付いていったのですね。

リエゾン草津は、この時に初めて「草津のチーム」になったのかも知れないわね。
とはいえ、選手たちは自分たちの生活と練習場の確保の問題、選手が少ないため、試合成立人数ギリギリで、リーグ戦を戦っていたことから来る疲労などに苦しんでいたわ。

そんなに選手がいなかったんですか?

以前にリエゾンに在籍していた選手たちに「試合だけでいいので来てほしい」と頼んだり、時には11人集まらず、9人で戦った試合もあったわ。

そんな状況でよくチーム運営を続けていけましたね。

選手たちは、精神的、肉体的、そして金銭的に限界寸前だったわ。
ついには脱落する選手も出始め、またしてもリエゾン草津は存続の危機を迎えたの。

たしかに状況は最悪ですね。

この危機にキャプテンの木村は、アカデミーの時の寮の持ち主だった飯島庄二に、「もう一度寮を貸してほしい」と申し出たの。
飯島は、アカデミー閉鎖で施設代収入もなくなり、莫大な負債だけが残された状況で、寮を貸せる状態ではなかったわ。
しかし、飯島は彼らを見捨てることができず、再び寮を貸し出すことにしたの。
さらに、飯島の仲介で選手も確保でき、人数の問題も解消されたわ。
こうしてなんとか、苦難の99年シーズンを群馬県リーグ2部残留という結果で終えることができたわ。
でも、依然として先が見えない状態であることに変わりはなかったの。

そうですよね。


そんなときに、転機が訪れたわ。

なにがあったのですか?

飯島にラトコから連絡が来たの。

アカデミーの時の講師兼監督ですね。
どんな内容だったのですか?

日本への旅行を予定しており、久々に草津に訪れたいということだったわ。
そして、1年ぶりに来日したラトコは、飯島からアカデミーの閉鎖と、リエゾン草津のその後を聞くことになったの。
ラトコが草津に来たことを知った木村は、「ラトコが指導してくれるなら、もう1年リエゾンをやりたい」と飯島に持ち掛けたわ。
飯島は困惑したけど、木村に押される形で、ラトコに監督を申し出ることにしたわ。
ラトコは「もう、アマチュアは見たくない……」と難色を示したけど、木村と飯島の想いに打たれ、再びリエゾンを指導することになったの。

よく監督になってくれましたね?

ラトコがアカデミーの講師兼監督をしていた時に、周りにラトコを理解しないスタッフが多かった中、飯島だけがラトコの支えになっていたの。
さらに木村とは、リエゾン草津結成前からの長い付き合いだったわ。
ビジネスを越えた友情がなければ、ラトコが再びリエゾンを指導することはなかったわ。

ラトコも観光で日本に来ていたのに、仕事になるとは思ってなかったでしょうね。

飯島はラトコの申し出により、彼の滞在中にセレクションを行ったわ。
セレクションは、ラトコが見守る中で行われ、数名の合格者が決定し、合計25人でリエゾン草津は再始動することになったの。

そういえば、運営面はだれが見ているんですか?

運営面は飯島が面倒を見ることになったわ。
寮施設費の毎月の返済、選手たちの食事代、ラトコの年俸やその他の運営費を作らなければならなかったわ。
もちろんアマチュアチームであるリエゾン草津に、スポンサーは存在しなかったから、選手たちで運営費を出し合い、その金額内で運営されていったわ。
アマチュアチームとして身の丈に合ったやり方で行われたの。

それでも、いっときの最悪な状況に比べればよくはなってますね。

新生リエゾンとして挑んだ2000年シーズンは、圧倒的な強さで勝ち進んでいったわ。
しかし、リーグ戦の後半戦に喫した1敗が響き、惜しくも2位でシーズンを終了。
群馬県リーグ1部昇格を逃してしまったわ。

1敗しただけで2位なんて、混戦状態だったんですね。

でも、手ごたえをつかんだリエゾン草津は2001年に昨年よりも大々的なセレクション告知を行ったの。
関係者の紹介で、Jリーグチームからも移籍話が舞い込むようになったわ。
その結果、在籍選手数も35人となり、収入面でも十分やりくりできるようになったわ。
2001年シーズンは圧倒的な強さで、群馬県リーグ2部を全勝で優勝し、1部復帰を決めたの。

やりましたね!

この時のリエゾン草津は、群馬県リーグ2部だったけど、戦力的には1部のレベルを超えていたわ。
この頃から飯島は「リエゾン草津の運営規模をどう広げたらいいだろう?
」と考えるようになったの。
この時期、東日本サッカーアカデミー卒業生の一人が、スポーツマネジメント会社の社長だった、賢持宏昭(元ザスパ草津社長)と接点を持っていたわ。
その卒業生から「リエゾン草津というチームが群馬県にあるので、一度見てほしい」と賢持に要望があり、2001年12月に賢持をはじめ、元セレッソ大阪の副社長だった大西忠生、元ベルマーレ監督の植木繁晴らがリエゾン草津を視察したの。
賢持から見たリエゾン草津は、完全なアマチュアチームであり、魅力的なコンテンツに映らなかったようだったけど、飯島らの「リエゾンをJリーグに上げたい」という言葉に、賢持は力を貸すことを決意したわ。
賢持は「リエゾン草津改革プロジェクト」という計画を立て、再び草津を訪れたの。
この時に、飯島は賢持にチームを託すことを決めたわ。
そして、2002年4月、「ザスパ草津」が誕生し、後を継いだ賢持は、見事にザスパ草津をJリーグに導いたの。

なんだか、壮絶なストーリーですね。

そうね。
『飯島庄二』、『木村直樹』、『ラトコ・ステボビッチ』この3人がいなければ、今のザスパクサツ群馬はなかったと言えるわね。

木村さんはJリーグへ行けたのですか?

木村直樹は2003年シーズンに選手を引退したわ。
選手としてはかなわなかったけど、コーチとしてJリーグの一員になったわ。
今もザスパ草津チャレンジャーズという、ザスパクサツ群馬のセカンドチームの監督をやっているの。
ラトコは2002年からギリシャリーグでコーチ、2006年から自国のモンテネグロで監督をつとめたわ。
前半はここまでね。
後半は賢持宏昭が引き継いだ「ザスパ草津」が、Jリーグに加盟するまでと、加盟後の話をするね。

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